わたしたちが、住んでいるこの世界は2元性の世界です。
2元性とは、「善と悪」、「光と闇」、「暑いと寒い」「自分と他人」「男と女」という具合に、
良いがあったら悪いがある世界、いつも反対が現れる世界です。

この相対する2つは、分離している感覚があり、自分と誰かが分離しているかのように感じたり、
神と自分も分離しているかのように感じたりします。

この人間の分離の感覚は、「孤独感を強め」「一人ぼっちになる」という恐れを持ちます。

この分離の孤独感は、人の奥深い深層深部に根深く貯め込まれています。
2元性の分離があることで、わたしたちの心の中の歴史で、葛藤と欠乏感をもたらしてきました。

この葛藤と欠乏感は、嫉妬や妬み、恨みがうまれ、争いや貧富の差、病原菌などを世界にうみだしました。
自分と「存在のすべて、創造主」から切り離されているという感覚は、人を無価値にして、無気力にします。


この分離の心は、「存在のすべて、創造主」から切り離された存在だという「幻想」を持ち、落ち込みます。


ただこの出来事は、自分の心の中で行われている事で他人には関係がありません。
自分の心の中にあるものを、他人に投影して私たちは自分のこころの中を知る訳ですが、
この事には気がつきもせに、他人と争い事をします。そして、また分離を繰り返すのです。






2元性の中でたくさん頑張ってきた、私たちですが
今、人はこの幻想を乗り越えて、自分たちが「存在のすべて、創造主」とひとつであることを
思い出す過程に入っています。


「分離」から「統合」に入っているのです。


「統合」とは、自分の意識レベルによるのですが
意識が2元性を統合した領域(高い振動レベル、存在のレベル)に入ると「存在するものすべて」が、
実は神そのものである、神以外のものはこの世界には存在しないという認識のレベルになります。


大地や空、大きな海、夜空に輝く星や月、樹木や石、そして生きては死んでいく存在たちもみんな。
この見方によれば、宇宙のすべては神の現れそのものだという意識になります。


自分自身だって、神の現れそのものであると知り、
無限の価値、無条件の愛、力のある存在でありながら、
喜びと豊かさに満たされてる存在であるということを思い出します。
それが、「目覚め」であります。


2元性の「統合」は
意識の振動数の上昇とともに起こってきます。


あれが良くて、これが悪いがなく、あれが上でこれが下という思い込んでいた観念が消えます。
2元性は相対的なものにすぎず、世界も自分も変える必要がなく、ありのままで完全である姿をしているという
認識が起きます。

この認識は、喜びと豊かさ、無限の価値と無限の可能性、無条件の愛、ほしいものは無限に存在している感覚、意図により創られる感覚、それに対して受け取れる価値と許しや感謝
意識は、この世界は、神以外は何もなかったこと言う認識になります。


この状態では。「存在のすべて、創造主」との分離が起きておらず 「統合」される感覚です。
統合されている状態は、エゴの死と読ばれたり「2元性から1元性へ」と呼ばれます。

それは神の感覚や愛の感覚の世界です。

こうして本来の自分に目覚めて行くのです。


この感覚でずっと存在するには、
それは、自分が受け入れる事に対して判断や条件を持たない事です。
判断や条件とは、これは良いけどこれは悪いといった※独自の判断である。
独自の判断は、受容に条件を付けることから「善と悪」「自分と他人」をうみだし2元性である分離を起こします。

意識の振動数を上げ続けるには
それが何であれ一切に無条件に受け入れる事から始まります。
もの事を光の側面である成功や健康など、望ましいものと同様に、
闇の側面である、失敗や病気など、人としては回避したいことも受け入れる意識から「統合」が起こります。

ものごとを柔軟に受容できる意識は、「この出来事は善にも悪にもなりえる」という理解をし、
決して分離しておこしません。



そもそも、2元性とは、相対的なものなので、
自分が善や悪と独自の思い込みで判断したがために、現れた幻想であり、2元性とは本来実態はなく、
自分が二つの対立する観念の関係性の中でのみ成立します。
なので自分の判断により成立させた幻想になります。


わたしたちは、どのように認識するかにより、いかようにも変化するのが「幻想」です。


現実の受容が出来ずに
認識している対象物、物質や人と「抵抗」している状態では、
観念は硬直化し、外の世界の存在の印象は「悪」であるかのように見えます。


その反対に、その人の認識の波動が精妙で高いと、
意識はその対象物と抵抗することがなく、大きく広がっていきます。


観念は柔軟になり、すべてを受容し優しく、ひとつの物事を多くの観念から受け入れるようになります。
物事は、善にも悪にもなり得ると認識しています。
物事は、ただ起こっているのであり、そこから自由に意味を引き出す事が出来、
「ただそうであるがまま」に完全な姿をしているという理解に目覚めているのです。


このように、今「統合」すべきとして「シータヒーリング」を人類が始めているのです。

自分のものの在り方が、判断から統合へと手を伸ばす。


日々の生活が良くなる生き方から、望めるすべてを「存在のすべて、創造主」から受容できるように。
この人生で、より多くを望む事が出来るようになり
そこで美しいものを実現をするように。


統合での生き方であるときは、自分は「存在そのものであり、創造主である」
受け取る価値が在り、豊かで健康である価値を感じているので、それは、家族や周りの人々にも与えられることを知っています。
周りの人々にもそのことを奉仕しているものをマスターといいます。


お分かりの通り
※独自の判断がわたしたちを永遠に、2元性をうみ続ける訳ですから
独自の判断に魂は苦しめられてきました。






では、独自の判断とは・・・
独自の判断というのは、今までの自分には、とても大事なものだったのです。
それは、自分本来であるという自我が備わっていて、自分を守っているものであります。


自分の今までの、学んできた事でもあります。自分にとっては大事だったのです。

自分が大事にしていた、独自の判断は、やさしくなでられても、むやみに解放されても、無理やり蓋をしても、
現れるものは現れるので本当の意味で解放しなくてはなりません。
やさしくなでられて解放されても、自分がそのことに対して理解していなければ、怒りとともに引き戻されます。


なぜ?その独自の判断を自分が持っているのか?それが自分にどのように役にたっているのかを知る事を気づきといいます。


長い2元性の中で、闇から経験した善のプログラムは、変更しなくてはいつも、闇がつきまといます。
善を経験するには闇が必要になってしまうのです。



シータヒーリングでは、独自の瞑想法により意識を集中して、祈りを超えシータ波状態になり
過去、現在、未来の領域を超えて高い意識状態へ上昇し、
自我や独自の思い込みの枠組みを抜けて真実から癒しをもたらす領域へと入っていきます。


存在しながら意識を高い振動レベルにもっていくと同じことです。
さらに、そこで、望むものを創造して、愛を感じ今の自分にそれを持ってくる方法を使います。


創造主の愛に溢れたエネルギーに触れることで、
瞬時に過去、現在、未来の※独自の判断や思い込みをブラスのものに変更させて、
今の自分にもってくるというのは人間の意識を超越していますが、それは可能なのです。
その状態にあるときは、宗教や親からの教え、あたり前に思ってきたことを超越し、
自由でありながら愛に溢れる自分がいます。

自身の魂は「統合」を達成しているので シータヒーリングを活用しているのでしょう。






人は同じ世界に存在していながら、エネルギーレベルにより見えている世界が違います
下の方のエネルギーの人は、苦しい世の中に見えていますが
上の方のエネルギーの人は、この世界は喜びとして見えています。


どの存在もすばらしい生き方ではありますが、その違いは、あなたが何を信じているかでこの世の中の可能性が違います。


シータヒーリングでは、ネガティブな思考にも着目していますが、本当は先祖から引き継いだ
有益な思い込みがDNAの中で眠っていて、まだそれらを目覚めさせていません。

わたしたちの先祖のポジティブな資質を目覚めさせることで何でも出来ると思えるようになるでしょう。