シータヒーリングを悩んでいるかたや、ご病気のかたに観てもらえたら嬉しいです

新しくホームページを作成中ですがこちらは いち早く こちらに掲載します☺

 

母との闘病生活

高校2年の時に、我が家に転機がおきました。
母が乳がんになったのです。
見つかった当初は小さい乳がんであり、転移の心配はないとされていましたが
それは、17年かけてゆっくりと骨や他の臓器に転移していきました。
わたしの使命はこのときから始まったのです。
最後の5年は本当に過酷なものでした。
17年かけて、保険適応の抗がん剤や放射線等の治療はすべて尽くしていて、どれも効果はなく、
大好きな母が日に日に悲しみにくれ 弱っていくのは、本当に辛い日々でした。
母は、大事にしている宗教があり、そのボランティア活動として同じ病気で苦しむ人を愛を与えながら励ますという活動をしていました。
人に親切にしている方が、元気でいられると言っていたのを覚えています。
それでいて、いつも、笑っている人でしたから
母の事が大好きなひとは多かったです。
生きているものすべてに愛を与える、無条件に愛するという事を実践していた母ですが
本人は癒されず、辛かったと思います。
どんなに、いい行動をして自分をごまかしても、癌は進行して、体はガリガリで体重は30キロぐらいしかありませんでした。抗がん剤の影響で髪の毛もなくなり、女性の楽しみは捨てたようなものです。
5度の手術をして、両方の胸は摘出しています。
「そんな母を救えるのは、私だけだ」という気持ちは、強く、わたしも人生を捨てた気持ちで
17年取り組みました。
私に、青春時代なんてありませんでした。
だれかを支えている、わたしこそ、本当にぼろぼろで、大好きな母が希望をなくすのは見ていられませんでした。
ずっと希望をもち、あらゆる治療をしたのですが それはどれも、よい効果は発揮してくれず。
母は、保険で適応する治療はすべてしていました
医者はみんな揃って、生きるのは無理だと言い、心が傷つきました。
医者の言葉を信じる訳にはいきませんでした、信じてしまったら母が死んでしまうから。
出来る事は何でもしました。
海外から無認可の抗がん剤を取り寄せ、一回に60万円を週に2回行う注射や
手の波動によりエネルギーを出して癌を攻撃する仙人に会いにいく治療 それも一回5万円
サプリメントを大量に飲む高額な治療 ひと月10万円など
家族は悲しみのあまり、正しい判断など出来ずに、出来る治療はすべて行い その治療費は4桁を超えています。
今思えば あの時、まっすぐに7層に繋がるという意識がわたしにあったら、母は助かったのであろうとわかるのですが
あの時は、シータヒーリングに出会ってなく、ネガティブなまま、直接各層にアクセスしていたしまいました。
その各層の制限に縛られた結果だと思います。
母の癌は、骨、肺、そして皮膚に転移していました。
皮膚を見て毎日、癌の大きさが把握できるので、それはもっと母を苦しめました。皮膚に癌が広がると体が硬直して、固くて痛くて眠れない日々です、それに悪臭もすごい。
毎日、携帯で、痛いよって呼び出されたのを覚えています。
そんな、わたしは何も出来なくて、「大丈夫、大丈夫」って声をかけるだけしたが
この段階でも、まだ、神が助けてくれる、奇跡が起きるって信じていました。
癌は脳には転移していないので、わたしの事を、覚えてくれていたのは、本当に嬉しかったです。
このような、病気による闘病生活は、人間にとって本当に過酷で、耐えられるような、悲しみでは
ありません。できれば、目をそらして生きることも選択できましたが
母を見捨てるなんて出来ませんでした。
私も、癌になったような気持ちで一緒に過ごしました。
私の方が誰かに助けてもらいたい・・・本当はそう思っていました。
わたしは、神に祈る時間が長くなりました。奇跡よ、奇跡よ
誰かに相談するのは、嫌いでした。なぜなら・・・誰もこの気持ちはわかってくれないって思っていたのです。
シータヒーリングをしている皆さんなら、わたしのどの思考がこのような現実を創ったか、すぐにお分かりでしょう。
母は、肺に水がたまってしまうので、毎日溺れる恐怖と戦っていました。
最後に母は、水に溺れる苦しみでわたしに「モルフィネで死なせてくれないか?」って聞かれました。
そんな事 母に言われて、私は悲しくて悲しくて、最後のわがままを言っていいなら「植物人間でもいいから生きてほしい」っていいたかったけど。言えませんでした。
母の苦しみは痛いほど わかるし、見ているのも限界でした。
モルフィネを、肌に張ると、「もう意識がもうろうとして記憶がなくなるかも」と医者に言われ
もう私の事は、わからなくなっちゃうかなって思い、怖かったけど
覚悟して、わたしがモルフィネを張りました。
そんなの 愛している人に張るのは嫌でした。
それから母は、1日で話が出来なくなりました。うつろ・・・うつろ・・・
今、思えば、魂がさまよっていたのでしょう。
2日目にまた モルフィネを張るときは、これを張れば、死んでしまうっていうのはわかっていたので、手が震えました
もう・・・お母さんの声が聞けなくなる。
やっぱり、お母さん・・・って声をかけても返事がなくて。
言い忘れた事があったから、わたしは 母に話をし続けました。
その晩も 意識がないけど、かすかに息をしている母の隣で一緒に寝ました。
その時間は、なぜだか、不安が消えて、愛されてる包括しる愛の気持ち。わたしは寝ずに、ちょくちょく、母の顔をのぞきこみ、息をしているかの確認。
そして安心して、またウトウト・・・でも 安心して嬉しいともいえる時間でした。
あのとき、最後に母とわたしの魂は抱き合っていたのだと思います。
とても居心地がいい時間が流れ、朝になっても母はわずかに息をしてくれていました。
わたしは子供を保育園に送ったり、朝の忙しい時間をすませて
母のもとに戻った瞬間
母は、スーーーっと あと息をしなくなる瞬間を見ました。
あ、死んじゃうんだ。
「もういいよ」って声をかけたら
心臓が止まり、腕の脈が止まり、血の気が引いていき、なぜか口角が上がり、笑ったような顔で死んでいきました。
母は 朝の忙しい私の時間が 終わるのを待っていてくれたんだなって思います。
お母さんの、亡くなる瞬間に出会えなかったら私は、悲しすぎる。ずっと一緒に頑張ってきたんだもん。
待っててくれて、良かったです。
わたしの「もういいよ」の合図で、安心して、次の旅に出たようです。
わたしは、スピリチュアルな方ではありませんでしたが
母の声で「バンザーイ、バンザーイ、やりきったぞぉ~」って聞こえてきて、
母が死んでしまったら、どれほどに悲しいか、考えてはいたのですが
まったく悲しくなく、やりきった安心感と希望が絶え間なく、わたしに降り注ぎました。
死も始まりにすぎない、歓喜なのだと体験しました。
お母さんは、わたしがヒーラーとして成長するために 本当にいい経験をさせてくれた
この経験は 母から子へ、最後の子育てだったのだと思います。
わたしは、この経験で、人一倍、思いやりを持ちましたが
残っている仕事は、潜在意識の思い込みの片付けることです。
ネガティブな思い込みがたくさんあったので、わたしは、このように、より面白いドラマを創ってしまいました。
経験して終わりではない、潜在意識は放っておけばまた違う型で、芽を出し始めます。
だって自分が信じていることだから。
神は外にはいませんでした。神は私の中に存在するのものであり、わたしの魂が真から輝くときに現れるのだと知りました。
シータヒーリングに出会った、あとは、ドラマではなく
自由に人生を創造し、1日2日と人生がよくなるのを創造しています。
ドラマに身をおくよりずっと楽しいです。
7層にはネガティヴがないので。
なんとも 見事なドラマな3層。
でも、もういらないです。
わたしの7層を探求する旅は続きますが、わたしは7層から人を癒すことしか興味がないのです。
たくさんの人を愛して、5層に帰ろうって思います。天なる父と母のいるところへ。
 

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